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2015年08月10日

三鷹情報>人見街道がなぜ真っ直ぐかの理由に驚く。

多摩の街道の本けやき出版 2015/4刊
今尾恵介著 195ページ
地図でたどる多摩の街道~30市町村をつなぐ道~

街道にまつわる話を100編
ほど集めた面白い本です。

著者は語ります。
道は作られた時の記録がある
にしても、その後の使われ方が
変わると、変名したり、無くなっ
たりする。

道の変化をたどると、歴史や時
代を知ることができて面白い。
この本はそれを書いたのです。

私は、三鷹、府中のところを読んで、まえから不思議だった「なぞ」が
解けました。三鷹市役所前を通る「人見街道」の謎です。

三鷹を通る杉並の大宮八幡宮から府中の大国魂神社まで15キロの
『人見街道』は、なぜその間が「真っ直ぐな直線」なのでしょう?

理由は、人見街道が古代・律令時代の官道(国道)だったからです。
『東海道』という名前の。
古代の東海道は、都から山城・伊賀・伊勢・志摩・尾張・・・相模・武蔵
を経て常陸まで15ヶ国の国府を結ぶ「海道」でした。

古代の東海道は相模の国府から鎌倉街道の道を北上し、関戸橋付近
で多摩川を渡り府中(武蔵の国府)に達します。そこで東に折れ、今の
人見街道を経由し、三鷹の牟礼から「荻窪駅」(駅は昔の宿場)を通り
「豊島駅」を経て、今の市川市の国府台にあった下総の国府に至るの
です。(下図「1250年前の駅路図」参考)
1250年前の駅路

東海道が三鷹を通っていた証拠が、明治後半の時期の地図ですら、
破線でしかない細い道ですが、15キロまっすくに東へ伸びているとい
うのも昔の官道である証拠なのです。

当時はまだ「江戸」が存在していませんから、都からの東海道の終点
が、江戸時代の53次の日本橋ではなく、茨城県の石岡(常陸の国府)
であるのが興味深いです。
いま、私たちは、三鷹市と茨城・笠間市の連携の活動を始めています。
三鷹と茨城の繋がりが「東海道」という道であった、というのは発見です。

面白い本です。
この本は私の入院中に、見舞いに来た秋元健一君が差し入れてくれた
のです。彼は、府中、調布、小金井、三鷹の地域活性化の活動に首を
突っ込み始めた好青年です。

秋元君、今ごろ読み終えました。ありがとう。



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